日本におけるゴミ処理の歴史

日本におけるゴミ処理の歴史日本におけるゴミ処理の歴史を、「ゴミの処分方法」、「掃除道具」、「糞尿の処理」に焦点を当てて調査した。

縄文時代

 

貝塚と呼ばれる生活空間から離れた場所に不用物をまとめて捨てていた。貝塚からは糞の化石も見つかっている。人骨や動物の骨、土器や石器等も捨てられており、不要になったものを弔う塚であったとする説もあり。

 

飛鳥・奈良時代

 

宅地内に穴を掘ってゴミを埋めたり、焼いたりしていた。また、空き地や道、水路にポイ捨てすることも多かったようであり、ポイ捨て禁止の法律が生まれたりしたがあまり効果はなかったようである。

このように、「穴を掘ってゴミを埋める」、「さらに埋めたゴミを焼く」、「空き地や道、水路にゴミを捨てる」という処理方法は、江戸時代まで続く。

 

都では、しばしば疫病が猛威を振るい、人々を悩ませた。
こうした疫病は都の外からもたらされると考えられており、疫病が都に入らないようにさまざまな祈りが行われた。

 

古事記には、川の上に小屋を建て、そこで用を足すようにしたというような表記も。川の小屋、つまり「かわや」と呼ばれる所以として考えられている。貴族の屋敷では、道路の横を流れる側溝を自宅に引き込み、水流の上で排泄を行なうことができるような遺構も見つかっている。

この頃から、中国から仏教文化の伝来とともに貴族階級に掃除の励行が普及し始める。桓武天皇が、平城京から長岡京へ遷都を決めた理由に、平城京の地理的条件と用水インフラの能力不足がある。

平城京は大きな川から離れているため、大量輸送できる大きな船が使えず、食料などを効率的に運ぶことが困難だった。比較的小さな川は流れていたが、人口10万人を抱えていた当時、常に水が不足していた。生活排水や排泄物は、道路の側溝に捨てられ、川からの水で流される仕組みになってが、水がほとんど流れないため汚物が溜まり、衛生状態は悪化の一途だった。

 

平城京は、都市特有のゴミ問題に悩まされた。
発掘調査ではゴミ捨て穴が多数見つかっているが、そのほかにも、道路の側溝などに大量のゴミが捨てられた。
ゴミだけでなく牛馬の死骸や死体が側溝に捨てられていた事例もある。

 

 

都の中に墓をつくることが禁じられていたため、皇族や貴族の墓は、平城京周辺の丘陵部や山中につくられることが多かった。
また、8世紀ごろから貴族や役人、僧侶のあいだで火葬の風習が広まった。

 

平安時代

 

掃部寮という官職がもうけられ、宮中の掃除や調度の設営などを担当した。

延喜式には清掃に関する法律も多く記載されており、「役所や屋敷の前の清掃は自分らでやれ」だとか「樋を設けて通水し、汚物を露出させるな」等の規定が定められており、違反者には厳しい罰則が定められていた。また、公の場を清掃する「清掃丁」と呼ばれる人を雇うことも定められていた(給料は一日米二升)。

貴族の住む寝殿造の邸宅には便所といえる定まった場所がなく、御簾で仕切られた樋殿と称する一画で「おまる」に排泄していました。

おまるは、大便用が樋箱とか清箱、女性の小便用が虎子、男子の小便用が尿筒と呼ばれていた。病草子の霍乱の女、餓鬼草子を見ると、一般庶民は縁側から外に向けて排泄をしたり、道端で排泄したりしていたようである。この時代、カラスや犬が残飯、死体、糞尿を食べて処理してくれていた。また、使用済みの紙を回収して、再び紙に抄きなおす試みもこの時代から始まった。

 

鎌倉時代

 

吾妻鏡に寺や道路の掃除について記載されている。汲み取り式トイレが発明される。禅宗の寺では、修行の一環として掃除が励行され、「一掃除、二座禅、三看経」と言われるほどになった。

この時代の建築は、床は木製、広い屋内を適宜布や屏風で仕切って使う様式だったため、掃除道具として麻製の雑巾を棒の先につけたクイックルワイパーもどきが使われていた。室町時代箒が一般に掃除道具として普及し、箒屋も出現する。

書院造りの建築様式の普及に伴い、手持ちの雑巾による掃除が普及する。戦国時代合戦後の戦場の掃除は勝ち軍が行っていた模様。黒鍬と呼ばれる雑役集団が戦場を掃除し、戦死者を埋葬したり、地元の僧侶や農民が埋葬を行なっていた。

 

江戸時代

 

江戸、大阪で大都市が発達。その結果、ゴミ問題が顕著になる。江戸では、野焼き、空き地や川・堀へのゴミの投棄が法律で厳しく禁止されていたが、大きな効果は特になかった。

■野焼き
近所の住居に延焼することもしばしば。消化能力が低い当時は、甚大な被害になることもしばしば。

■空き地へのゴミの投棄
そもそも、延焼を防ぐための緩衝地帯として空き地が用意されていることが多く、そこにゴミがあれば燃え移ってしまうためその役割が果たせなくなる。また、虫が湧いたり、悪臭が発生したりと衛生上よろしくない。

■川・堀へのゴミの投棄
水質の悪化、悪臭の発生等やはり衛生上よろしくない。また、当時は水運が流通の主力だったため、船の運航にも影響が出るのは困る。不法投棄問題の解決を図るため、幕府は不法投棄を取り締まる「芥改役」を設けた。役についた者は帯刀が許され、塵芥が捨てられないよう、また芥船が川に塵芥をすてないように、取り締まっていた。

同じように川・堀の発達していた大阪でも、ごみの不法投棄が問題となっており、「川筋掟之事」と称する触れを、大阪町奉行が交代するたびに出していた。三代将軍徳川家光の時代までは、各地に「会所地」と呼ばれる空き地があり、ごみ投棄場として利用されていた。しかし、付近の住民は悪臭や蚊・ハエなどに悩まされ続けていた。

そのため、奉行所は1649年に町触を出して「会所地」にごみを捨てることを禁止した。そして1655年にごみ投棄場を指定し、江戸中のごみはそこに集められることとなった。江戸時代には埋め立て処分地として、海辺の低湿地が利用されていた。現在でも江東区にはゴミの処分場が集中しており、夢の島も埋め立て処分地の跡地である。

江戸時代は、世界的にも珍しいリサイクルが主流の循環型社会で、さまざまなものを回収して修理や再利用して利用をしていたが、それでもゴミは発生する。各家庭において発生したゴミは、ごみを処分場まで運ぶのを生業とする芥取り業者がおり、人々は船が着く所までごみを運び、そこから船に乗せて、川や堀を使ってごみ処理地まで運んでいた。

1662年にはごみの運搬を、幕府公認の浮芥定浚組合が行うことになった。運搬途中には、肥料芥・金物芥・燃料芥・燃料芥として利用できるものは選別し、農家・鍛冶屋および湯屋に売却していた。

近代

 

1868年
世界最初の掃除機「真空掃除機」がアイヴィス・マクガフィーによって発明される。

1877年
神奈川、神戸、長崎でコレラ大流行。1897年、敦賀に国内初のゴミ焼却炉が登場。

1899年
ペストが神戸港に上陸。

1900年
汚物掃除法制定。日本最初の廃棄物に関する法律。公衆衛生の確立に向けて、土地の所有者や責任者の「汚物を掃除し清潔を保持する義務」と、市の「蒐集した汚物を処分する義務」が定められる。「塵芥はなるべくこれを焼却すべし」と定められ、ゴミ焼却が主要な処理方法になる。

1901年
世界初の電気式真空掃除機がヒューバート・セシル・ブースによって発明される。

1905年
世界初の家庭用電気掃除機がチャップマン・アンドスキナー社から発売される

1930年
汚染物掃除法においてゴミの焼却が義務化され、多くの自治体で小型のバッチ炉が建設される。

1931年
日本初の電気式真空掃除機が発売される。

1945年ごろ
農業で化学肥料がメインストリームに。

1950年
「し尿の直接農地散布禁止令」が出される。結果、市中に糞尿が溢れて、あらゆる場所に不法投棄される。衛生環境の悪化から赤痢が大流行する。

1960年代
洋室のある公営団地ブームに伴い、絨毯が流行。絨毯を掃除するために掃除機が一般家庭にも普及。

1965年
ゴミを投棄して積み上げる形のゴミ埋立をしていた夢の島で蝿大量発生。夢の島焦土作戦が実施される。これを機に衛生的埋立へのシフトが始まる。

1970年
廃棄物処理法制定。産業廃棄物の指定と、簡単な処分基準が定まる。

1977年
共同命令発令。最終処分場の指針が示される。

1980年
紙パック式の真空掃除機が発売され、一般家庭に普及していく。

1988年
最終処分場指針解説が、発刊される。施設の構造や構成、作業の仕方などが具体的に定まる。

1998年
基準省令発令。施設の強度や検査基準等の明確化が行われる。結論古来より日本では、ゴミの基本的な処理方法として、・生活空間と離れた場所に穴を掘って埋める・川や海、水路や井戸等に捨てる・空き地や道に捨てる・空き地等に集めて燃やすという方法が用いられてきた。

これらの方法は1930年にゴミの焼却が義務化されるまで続いた。

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綾羽光陰
調査力・文献査読力が高すぎて特許事務所をクビになってしまったゲーム作りのプロ。論文・文献調査のご依頼・お問い合わせはこちらから。